「お店の価値は、勝手には上がらない」——はじめての値上げが、怖かった話

夜、電卓と通帳を前に考え込む手元

前の記事の最後に「いつか値上げの記事も書くかもしれません」って書きました。——書きます。今日はお金の話を、正直に。

水面が、上がってくる

値上げの話をする前に、開業前のお金の話をさせてください。

お店を開くとき、僕は銀行から融資を受けました。そのお金で、内装をきれいにして、設備を整えて、どんぶりを買って、のれんを買って——お金が、ガンガン出ていくんですよ。

当たり前なんですけどね。でも、オープンまでの間って、入ってくるお金はゼロなんです。減っていく一方。

あの感覚、どう言えばいいかな。水面が、じわじわ上がってくる感じなんですよ。最初は胸のあたりだったのが、肩まで来て、首まで来て、顎まで来て——アップアップになっていく。あれは、経験した人にしかわからない怖さだと思います。

だからオープン初日、はじめて自分の店の売上を手にしたとき——

「きたーーーーーー!」

って、心の中で叫びましたもんね。金額の問題じゃないんです。水面が、はじめて止まった音がしたんですよ。

一年、我慢して——さて、値上げ

前の記事に書いたとおり、うちは先輩の言葉に従って、安い値段でスタートしました。おかげで「おいしくて安い」という評判が回って、お客さんもたくさん来てくれた。

で、一年くらい経って。いよいよ、値上げです。

まず金額をどうするか。僕はね、10円20円で刻むのは、好きじゃなかったんです。 ちまちま上げると、そのたびにお客さんに「あれ?」って思わせることになる。だから、一回50円、と決めました。

——この決断が、怖かった。今でも覚えてます。

「安くておいしい」で来てくれてるお客さんが、離れるんじゃないか。あの水面の感覚が、戻ってくるんじゃないか。

券売機のボタンの値段表示を貼り替える指先

それでも上げた理由

怖かったのに、なんで上げたか。僕の中に、ひとつの考えがあったからです。

お店のブランドとか、価値っていうのは、勝手には上がっていかない。結局、自分で上げるしかない。

誰かがある日「あの店は良い店だから、高くても払おう」って言い出してくれるのを待ってても、その日は来ないんですよ。値段っていうのは、お店が自分の仕事に付ける値札です。自分の仕事の価値を、自分で信じて、自分で上げる。それをやらない限り、一生、最初の値段のままなんです。

フタを開けたら

で、50円上げて、どうなったか。

——なんだ、こんなものか。

正直、それが本音でした(笑)。お客さんは、ほとんど変わらなかったんです。誰も何も言わない。ふつうに食券を買って、ふつうに食べて、ふつうに「ごちそうさま」って帰っていく。

あんなに怖かったのに。

考えてみれば、当たり前なんですよね。うちは元が安かったから、50円上げても、まだ「安くておいしい」の範囲にいた。先輩の言うとおり最初に下げておいたことが、ここで効いたんです。順番を守ったから、上げるときに、上げられた。

それからは、様子を見ながら、50円ずつ、何回かに分けて、今の値段まで上げてきました。毎回、少しは怖い。でも、最初の一回ほどじゃない。

昼、窓に面したカウンターでラーメンを食べるお客さんたちの後ろ姿

値上げした先に、あったもの

値上げして、何が変わったか。

売上が上がった——それはそうなんですけど、僕にとって大きかったのは、そこじゃないんです。

従業員の時給を、上げることができた。

前に「うるさく言ってる分は、給料で返す」って書きましたよね。あれができるのは、値上げをしたからなんですよ。自分の店の価値を自分で上げて、その上がった分を、一緒に働いてる人に配る。この循環が、はじめて回った。

あのとき、ハードルを一個、超えた気がしました。値段のハードルじゃなくて、「自分の仕事に自分で値段を付ける」っていう、店主としてのハードルです。

正直に言うと、今も

……と、偉そうに書いてきましたけど。

前の記事にも書いたとおり、僕は今、「もうちょっと上げてもいいかな」と思いながら、上げられずにいます。原価は上がり続けてる。理屈では、上げるべきなんです。

でも、迷ってる。何回やっても、値上げは怖いんですよ。

ただ、ひとつだけ確かなのは——迷ったときに戻ってくる場所が、僕にはもうあるってことです。

価値は、勝手には上がらない。自分で上げるしかない。

次に上げるときも、たぶん手前で足がすくむと思います。でも、フタを開けたら「なんだ、こんなものか」——あの声も、もう知ってるので。